「んん〜〜〜〜〜っ」
モニターに向かうこと数時間。
気が付けば目が痛い。空腹を感じる。少し眠い。歳の所為か腰が痛い。
「はぁ〜〜〜」
疲れた、という言葉をぐっと押し込んで、彼は伸びをした腕を背もたれに回し、周囲を見渡す。
時間はモニターの端に出てくるが、今はなんだか首を動かしたい。
「2時半・・・?・・・・2時半か・・やばいな」
外は明るい。
昼の2時半である。
いつから作業を始めたか覚えていない。
朝食は食べたような気がするが、これもよく覚えていない。

「・・・どうして」
彼には得意なはずである。
「うーーん」
レジストリをいじっているうちに、どこかがかみ合わなくなったようで、どうにもパソコンがうまく動いてくれない。
どこをいじったか、明瞭に記憶している箇所はチェックをしたのに、彼の機械はいまいちだ。

疲れて時計を見たのはサインだろう。
彼は今にもきしきしと音を上げそうな体を椅子から立たせる。
なにかを食べようと台所に立ち、そこを見てうんざりする。
「片付けなかったっけ・・」
炊飯器には冷え切り、しかも水っぽくなった白飯が。
鍋には水と味噌に分離した味噌汁のなれの果てが。
なにもかも面倒になって冷えた飯をそのまま口に入れ、これも悪くない、と思う。
こんなときにはその行為がずぼらだ、などとは考えない。

ひとつ溜息をついて、咀嚼を繰り返しながら、再び画面に向かう。
頭の中で手を加えた箇所を必死に思い出しながら、バックアップをとらなかった自分を悔いる。
バックアップがあるはずだ、と探したのはほんのわずかのこと。
すぐに、そんなものは無いということを思い出した。
「今日は何も無いからせっかく・・」
そう、近頃勉学に勤しむあまり愛機に手をかけられなかった、だから今日は、と思っていたのに。
こんな日もあるだろう、とは思うが、しかし。
不思議なもので、毎日専門書漬けだと、数時間離れただけでもう恋しくなる。
数学科の研究室の本の臭いが思い出される。
数学が専門ではない彼には初めて見る用語ばかりが並ぶ部屋。
空間、というキーワードに魅せられて来たはいいものの、本の字面を見ただけではわからない不思議さ。

そういうとき、必ず思う。
あの空間。何だったんだろう。
あそこには空間があったけれども、あれは何と定義する?
呼び名が欲しい。勉強をしたい。知識が欲しい。

考えて、音に気付いた。
先ほどから不機嫌そうに響く機械のモーター音ではない。
足音だ。
学生向けの古く安いアパートだから、音は丸聞こえに近い。
隣に住む学生も理系の学生で、キーボードをたたく音がよく聞こえる。その彼はこんな足音ではない。
彼の音よりもっと颯爽と・・しっかりとした音で、それは階段を二階へ登ってくる。
「・・・」
確信に近いひらめきが浮かぶ。
彼には今日は久しぶりの休養日だと伝えたのだから。

「起きてるかー」
やっぱり、と大いに顔を顰める。
しばし逡巡する。答えるべきだろう。
でないと彼は帰ってしまうか、もしくはドアを突破して入ってくるか、どちらかだろう。
「起きてますけど」
「そうか。・・・・・入れてくんないの?」
「・・・人様をお招きできる状態じゃないです」
「なんだそりゃ」
「ちらかってます」
「だろうな。俺もそうだし」
「太一さんほどじゃないと思います」
「ほー、言うなァ。見てやるよ」
「・・・・・・・・・・・・。」
応酬のあと、光子郎は鍵を開け、扉を開ける。
「太一さん」
「よ、来てやったぞ」
小さくはい、と答えて彼の耳元に欧米風にキスをすると、それだけで相手が緊張するのがわかる。
「お前な・・・」
「ただの挨拶ですよ」
本当にそのつもりだったわけではないが、
わずかに苦笑するような表情を作ると、相手は「そうか」と納得してしまう。
「とにかく、」
太一が靴を脱ぐのを見ながら、光子郎が口を開く。
「今、汚いんです。太一さんが来るってわかってたら朝からもっとちゃんとしたのに」
「そんなの気にすんなって」
本当に汚いのだが、見せたくない、とは言えない。彼を追い返すことなどできはしない。

玄関を入ればそこが台所だ。靴を脱いで顔を上げた太一の目に、惨状が映る。
「・・・いつの?」
鍋のことだろう。
「多分、今朝です」
「多分?」
「昨日のこととか、今朝のことより覚えてないんです」
「おいおい、ボケには早すぎ」
これにもわずかに苦笑する。
そんなつもりはなくても、バランスよく脳を使っていない故に、こんなことになるのだろう。
「わざわざ休みの日を作ったのに生かせてなくて、ちょっと失敗ですね」
「なに?実は早起きしたとか?」
「・・ええ、まあ」
「今、何してたんだ?」
「ちょっとレジストリを」
「好きだな相変わらず」
「でも今日は色々抜けちゃって」
「へえ?」
言いながら、太一をパソコンのある場所へ連れて行く。
「動きがいちいち鈍くなってしまって・・何をしたか覚えてないし、バックアップもとってなくて」
「ふぅうん。珍しい。」
本当に珍しそうに言うものだから光子郎はますます苦笑する。
「再起動はしたよな?うーん・・・」
「いいんです、それより寒かったでしょう、お茶かコーヒーか、入れます。」
考え出した太一を光子郎は遮る。
太一はなおもちらちらと画面を見ながら、紅茶、と答える。
「はい、ちょっと待っててくださいね」

パソコンと台所はドアが隔てているとはいえ至近距離である。
ドアは開けっ放しだから、正確には隔てているとはいえない。二人の位置はとても近い。
太一が一言も発しないのは、光子郎のミスをなんとかしようと考え込んでいるからなのだろう。
「紅茶・・」
広くない台所の棚、ここにあると思った場所に紅茶が無くて、光子郎は一瞬焦る。
「どこにしたっけ・・・」
光子郎が手当たり次第に棚の扉を開け始めた頃、太一は静かにマウスとキーボードを動かし始めた。

「太一さん、」
「お、紅茶あったかー?」
「ええ、まぁ・・。今淹れてます。太一さんは・・・」
「レジストリ洗い出してるとこ」
「洗い出す、って・・まさか」
太一は画面から目を離さずに、にっと笑う。
「こないだ試験やったばっかだからなぁ。なんとかなるだろ」
「ええ?試験??」
「大丈夫、バックアップとったし」
「はぁ・・」
「どうあってももっぺんインストールとかしないのが光子郎らしいよなぁ」
揶揄する言葉に、光子郎は嘆息する。
「・・・もう諦めかけてたところですよ・・」
「ふぅん。紅茶どうだ?」
「5分だす茶葉なんで・・もうちょっとです」
「ついできて」
ぶっきらぼうともとれる言葉に、光子郎は少し驚くが、はい、と言い置いて太一から離れる。

一分経たないうちに二つのマグカップを携えた光子郎が機械の傍の卓に陣取る。
「太一さん、入れてきましたよ」
「・・・・うん。・・負けだな」
「負け?」
椅子から立ち上がり、光子郎の向かいに座りながら、太一はすっきりしない表情をする。
「光子郎が紅茶入れるまでに一つくらいアラが出るかなと思ったんだけどなぁ」
光子郎は思わず破顔する。
「賭けですか?」
「別にカネは取らねーぞ」
「ま、インストールするつもりです・・しかたない。自業自得ですしね」
「そうか・・。もったいないなぁ」
「もったいないですか?」
「なんとなく、な」

太一が紅茶に口をつけたので、光子郎も一口飲んだ。
「あ、砂糖入ってないのな」
「要りますか?」
「要る。取ってくるよ」
「でも」
砂糖の位置がわかるわけない、言外に含ませたが、太一はそれに笑みで答える。
「俺んとこより散らかってないんだろ?確認してやる」
「・・・・っ・・。た、太一さん!」
僕がやりますから、と言いながら、光子郎は色々と整理しないと、と思う。

太一がパソコンに精通し始めている事、太一が学校でうまくやっている事、
自分の変な癖がまた出てきた事、物理学科一年生ながら数学の専門書に手をつけてしまった事・・
良いことだ、と思う。

賑やかな日々、明るい日々が、まだまだ続く。

長いだけの話ですみません。

大学のお話。
でも、以前はきちんと一貫した設定があったのに、それを無視して書いてしまいました。
それだけに書いてて新鮮でしたが。

ところで物理は「1に数学2に数学、3・4が無くて5に数学」とのことですので・・
物理を志す方はみんな数学やるんですよね・・。
実際どのレベルまでやるかなんて知らないのでろくに調べもせず適当に書いてしまいました;;
この場で懺悔すると共に事実でないことをお伝えしますです。スイマセン・・。


みゆ 02.11.02 UP

つーかなんでこんな太一さんが攻めっぽいんだ…?謎。