あなたの瞳がとてもさびしそうだったから、僕があなたを愛して守ってあげるなんて、とてもじゃないけど言えなかった。

   。  。  。


「どうしていかないんだ」
既存のシステムからデータを引っ張ってくるだけなんだぞ、と自分が作ったシステムに難癖をつける。
「え? なにか言いました?」
すぐ後ろで声がした。
自分が声に出していたことに気付いてもいなくて、そのことは僕をさらにいらだたせた。
「…うまくいかなくて」
「はぁ」
このひとは駄目だ、だって僕のプロジェクトの中身すらわかっていないんだもの。
そのひとは何も言わずに立ち去っていくのかと思ったけれど、僕の右側からモニターを覗き込んだ。
「なにしてるんです」
「誰にでも、うまくいかないことはありますから」
そりゃあそうだろうけど、と僕は不機嫌に黙った。

「僕に直せるわけないでしょうけど、泉さん、疲れてるみたいですから」
「そう見えます?」
「ええ。だから、ひょっとしたら僕にでもわかるかなって、思ったんですけど…やっぱりわかりません」
不機嫌さを隠さずに言っても、返す口調は丁寧で、声音は穏やかで、少しこのひとを見直した。
「そですか」
「僕には、仮眠をお勧めすることくらいしかできませんよね。すいません」
「いいえ。ありがとう」
言ってから、少し冷たかったかな、と思った。それで、去っていく背中に言った。
「少し寝てみます」

    。  。  。


「こんな良いとこ、知ってたんだ」
「偶然取れただけです」
目の前で太一さんは上着を脱いで、深呼吸した。
「あー…きもちいい」
「はい」
土壁に、新緑。和風の内装と、窓の外の景色が素晴らしかった。
「たまに二人で羽のばすのにはいいな。」
「また来れるといいですね」
「ああ」
太一さんの瞳は悲しげだった。それはなにかいやな予感を呼び起こす。
だから僕は珍しく饒舌になった。車のこと。服のこと。仕事のことからニュースまで。
普段は僕が聞き役なのに、今日は太一さんが聞き役になってる。変だな。
変なこと続きだ、太一さんの顔がずっと悲しげだ。

何だろう。何だろう…

思っているうちに、ふいに太一さんは立ち上がった。
「なあ」
「ハイ」
僕は慌てて返事をした。緊張して、返事をするのが精一杯だった。
「なあ…俺は」
「え」
泣きそうな顔をして、あなたは言うのだ。

「俺のことは?」

舌のぬめりまで再現したその夢に、僕は決意した。
あなたを置いてけぼりなんかにしやしない。
あなたの目を誰か他の人のほうへ向けさせるような、そんな時間、もう奪ってやる。
あなたのもとへ、一刻も早く、帰りたい…


   。  。  。 


仕事を放り出して、カレンダーに書き込まれた計画も1日延ばしにして、僕は鞄を掴んだ。
頭から、あの泣きそうな太一さんが離れない。
俺のことなんてもういいのか、なんて言われたら、僕はもう今までの僕には戻れなくなるだろう。
何度も睡魔に襲われるが、こういうときはタクシーを使うといいということは忘れなかった。

運転手に金を払ったが、果たして釣り銭が合っていたものか。
頭は本当に働いていない。
ぐらぐらと揺れるマンションを見つめ、運転手に部屋まで連れて行ってもらいたかった、と呆然とすることしばし。
思い直して、体当たりするようにドアを開ける。
オートロックのキーをさして、二つ目のドアも開けて、それからエレベーター。
行き先も回っている。でも、たぶんこれだ。…
部屋のドア、間違いないとは思いつつも、一応確認してみるくらいには頭は動いていた。
「泉」「八神」、ああ、大丈夫。
鞄のキーケースから鍵を探す。たぶんこの鍵だ。

がちゃっ、

   。  。  。


音に太一は驚いた。
深夜だ。
光子郎が帰ってきたのだろうか。
でもまさか。
いや、まさかと言ったらひどいだろう。
携帯もパソコンも、とにかく連絡を寄越さなくなって3日。たった3日じゃないか。

がちゃがちゃ、

…でも本当に誰なんだ。
開かないんなら呼び鈴を押せよ。
泥棒かっての。

ちゃり、

誰だろうと思いながら、光子郎と決めつけて、太一はのそりとソファから立ち上がった。

がたん、がこっ、…どさっ。


「…あきれた」
まぎれもなく光子郎である。
5日前に見たスーツを着ている。
髭を剃っていなかったらしく、今まで見たことの無い空気を放出している。
見たことの無い空気を感じさせるのは髭のせいだけではない。
むしろ、今太一の目の前で起きていることは、信じがたいことだった。
光子郎は酔っぱらいが路上でするかのように靴をはいたまま、玄関で寝ているのだ。
「ばかだこいつ…」
鞄を持っていた手は力が入っておらず少し開いている。
「ここが本当にお前の家じゃなきゃ、鞄は盗られてるよ」
酔っぱらったのにちゃんと家に帰ってきたのはさすがだな、と太一は感心したが、それにしては煙草の匂いも酒の匂いもしない。
「…そっか」
太一はそっと光子郎の頬に触れた。
すぐに目を覚ました光子郎の、その目が視界を澄ませようとする前に、太一は彼に口づけた。

光子郎の驚きは太一に優しかった。
「おかえり」
「ああ、…ただいま。大好き」
髭面で寝ぼけ笑顔の彼もそれなりに見れるな、と太一は嬉しくなった。


 。  。  。


「ばかだこいつ…」

ああ、太一さんの声がする。
待っていてくれたんだろうか。
本物の、太一さんのキスだ。
「おかえり」
「ああ、…ただいま。大好き」

あなたを一人にしたりして、本当にごめんなさい。