2008年diaryより。短いのが17本続きます。↑new↓old





「光子郎」
部屋の入口で呼ばれて目を上げる。
「なんですか? あ、もう寝ます? 明るくしててごめんなさい」
「そんなことじゃないよ」
微かに表情を変えて、太一が部屋に入ってくる。
「根を詰めてるから、心配はしてるけど。まあまだ大丈夫だろ?」
「 ええ、大丈夫ですよ。心配してくれて、ありがとうございます」
笑って答える。心配をかけているのは知っているのだけど、だからって止められるような性分でも立場でも無い。
「太一さんが止めてくれるってわかってますけど、一応僕だって僕なりに体調管理はしてます」
「うん…」
会話が終わってしまった。あれ、そういえば彼はどうして部屋に来たのだろう。作業中は滅多に邪魔をしないのに。
「あのさ」
「はい」
「邪魔したくなって」
「はあ」
「……。」
「……。えっと?」
「……邪魔しちゃ迷惑だって、よく知ってるけどっ」
押し倒された。どういうことかな。
「あの…これは」
「半日とは言わないから…1時間でいい。作業を遅れさせても、いい?」
組み敷きながら 、そんなお願い事。
「それなら、もういっそ半日でもいいでしょう」
ああ、こんな幸せが降ってくるなんて。








本当は、触れることに慣れてなどいない。
そのことを、あなたは知っているのかな。
「…太一さん」

「……」
頬に触れると、寝息のリズムが狂う。
こうやって、干渉できる地位を手に入れた。

「本当は」
声に出したら起こしてしまう。だから口を動かすだけ。
「触っていいか、毎回聞きたいくらい」
そう、本当は、何をするにも許可を貰いたいくらい、僕は臆病。

「あなたには、想像もできないかな」
微かに笑う。狂った寝息は、もう正しいリズムを取り戻していた。









「おわったー」
そう言うと両手両足を伸ばしてバランスをとり、
すこし疲れた笑顔になる。
「おつかれさまです」
「あーまあ、そんなに疲れるわけじゃないんだけど」
言いながら、筆記された英文の上に顔を伏せる。
「毎日、結構な量ありますよねえ」
「まあな。これを書くだけってのがなあ」
「太一さん、書きながらちゃんと訳してるでしょう」
「そうだけど、なかなか次の文節に行けないから疲れるんだよ…」
顔を伏せたまま、と思ったら、顔の向きを変えて英文を読もうとしている。
「ふふ、大学生に夏休みの宿題なんて」
「なあ!おかしいよなあ!ネットで見れる英文を書き写すなんて」
既に何度もしたやりとりなのに、太一は大きな声で反応する。目で英文を追うのをやめて、頭を上げる。
「ええ、なかなかうまいやり方です」
「ったく、光子郎もやればいいのに」
「また今度にしときます」
「くっそー」
ほとんど毎日、太一は光子郎の家にやって来てはその宿題をして帰っていく。
「で、そろそろ教えてもらえませんか」
「んー?何を」
「どうしてここでその宿題をするかです」
「そりゃあお前、決まってる」
太一は完全に身を起こし、にっと笑う。
「ここならネット代かからないもん」
嘘だと思いたい理由だ。そして、この理由は5番目くらいの理由なのだと、そう思っておこうと、光子郎は苦笑いする。
「定額制ですからね…いくらでも使ってください」
そのまま、太一に麦茶のおかわりをやろうと席を立つ。
「…嘘だよ」
「…なにがです」
「かわいくないなあ。素直になろうってのに」
光子郎は麦茶をノートの右横に置いてやる。
「そんな言い方」
「ここでやれば、お前が監視してくれるから、ちゃんとやれるんだ。それに、ちゃんとまじめにやってる俺、ってのを、演出できる」
太一は真顔で言う。
「俺だって、お前とおんなじだよ。お前に嫌われたくないから、できるだけお前に会って、いいとこ見せておくんだよ」









ふと、窓を開けて外を見渡してみる。
群青を淡く刷いた空に、灰色の入道雲。
夕方が終わり、もう夜になろうとする夏の姿だ。
じとりと湿気を耳に感じながら、光子郎は外を見ることを止めない。
(夏、だなあ)
全体に薄い雲がかかっている中、薄ら光る点は一番星。
こんなにのんびりした一時を持てるなんて、さすが夏休み。そう思ったところで、蝉の一声が辺りをつんざいた。
「わっ…」
たまらず体を部屋に戻し、窓も閉める。それでもじんわり耳の奥に残る、すさまじい音。
(もうすぐ、8月1日か)










「なにしてたの」
めずらしくぼうっとしていたから、だろう。太一に問われて、光子郎は振り返る。

「なにも、してませんよ」
へえ、変なの、
太一はそれだけこたえて自分の仕事に戻った。
仕事というのは、週末の練習試合で遠出をするのでその準備だ。スパイクとユニフォームだけは金曜日に持って帰ってくるが、それ以外の、例えばタオルだとか移動のときに読む小説だとか、そういったものを取捨選択している。そんな準備をするのは今回が初めてで、光子郎はそれこそ変なの、と思っていたりする。

「たいちさん」
「ん〜?」
太一は返事はしてくれるが、振り向かない。
「…空がね、きれいですよ」
「そか。空を見てたんだ」
振り向かないまま、太一が相づちをうつ。
「たいちさん」
「なに」
「…」
「なに?」
太一が振り返る。それで満足。
「なんでも、ないです。」









首や額から汗が止まらない。
「んん」
時々くぐもった声が聞こえる。
それは太一のものとは限らない。光子郎が声を上げるたび、太一が口角を上げる。
「はぁ」
光子郎のものを舐めた舌で、光子郎の舌を吸う。
それに頓着する様子無く、光子郎はキスに集中する太一の汗に濡れた腰を抱えなおす。
「あ、んんんんっ」
光子郎の膝に乗せられて、太一のなかを電流が走る。
「ああっ、」
声を忍び、それでも全てを漏らさないわけにはいかず、時に大きく声が出た。
「…きもちいい?」
声では答えられず、大きく頷いて答えた。光子郎はその答えに実に嬉しそうな笑顔をしてみせる。



 




左の肩にことんと落ちるのは太一の頭だ。

(…めずらしい)
太一を起こさないよう気を付けながら、光子郎はそちらを気にする。
テレビでは深紅のスペイン人たちが歓喜していた。その音声を少しずつ小さくする。
右手でボタンを押していても、左にいるかれには振動がいってしまったのかもしれない。重みはほんの数分。にわかに重さが減り、そのままするりと体温が逃げた。

「あ…おれ、寝てた?」
「ええ、ちょっとだけ」
太一は視線をテレビにやり、そしてゆったりとわらう。
「ほんとだ…ちょっとだけだな。」
言いながら光子郎を支えに立ち上がる。

「さて、決勝も終わったし。寝るか」
「1時間半しか…ないですけどね」


 





「しあわせは、そこらじゅうにあるものですよ。」

マグカップになみなみと注がれたカフェオレの水面が揺れる。
揺れる曇り空に太一は目をこらす。

「毎日が競争の太一さんと僕とでは、そんなに世界が違うんですね。」

聞きたくない言葉が、心地いい声に乗る。

「こうやっておいしいものを飲んでいる。暑くなく、寒くなく、すてきな曇り空が窓から見える。なにより、僕も太一さんも、怪我も病気も無くて元気じゃないですか」

「そうだな」

光子郎は息をついた。
「でもね、僕だって、あなたがそばにいてくれるから、そう思えるんです。」

太一は水面から目を上げた。

「あなたがいてくれなければ、僕もいまの太一さんと同じ。曇り空を気持ちいい空だなんて思えなかったでしょう」


 




それは完璧なやすらぎ。
「ただいま。今日も俺、頑張ったよ」
口には出さない。ただ念じるだけ。

自分を思い出したときに、そう念じて欲しいと、そう彼が言ったから。
彼を思い出したときだけ、そうやって念じる。
そのひとときは、完璧なプライベートであり、完璧な安息。
ほんと、あいつは何でも完璧。



 





「早いなー2年って」
「そうですね、振り返るとあっという間でした」
光子郎が一人暮らしをしていた部屋を出る。
2年の約束で家賃を出してもらっていた光子郎が、律儀に台場の家へ戻るのである。
光子郎の両親はまだ構わないと言ってくれたのだが、光子郎は約束したことだというのと3回生からは授業時間が減るから台場からの通学も大丈夫と、それを聞き入れなかった。
太一は自らの都合もあって、一人暮らしを続ければいいのにと思ったりもしたが、基本的には光子郎が決めたことに口を挟めなかった。光子郎が頑固だというのを知っていたのもあるし、こと両親の絡むことになれば、光子郎の意思を尊重してあげたかった。
「学校も忙しいのに、家事もやってたもんな」
「ときどき、やってませんでしたけどね」
そう言って少し笑う光子郎は、2年前より大人びているように見えた。
(前から大人びてたけどな)
思いながら、太一はこの部屋で南側からの日差しを受けて笑う光子郎が好きだったと、急に思い出す。
今日のような少し曇った日よりも、晴れた日に引っ越しをすればよかったのに。少しだけさみしくなって、そしてそんなことを思う自分がとても恥ずかしくて、太一はすっくと立ち上がる。
「最後のも運ぼうか」
「はい」
耳が熱いのが、光子郎にばれるのはそのすぐ後のことだった。



 





なぜこの二人がいつも一緒なのだろうと、まわりにはそう思われているんじゃないかと思う。

「あなたたち、服の趣味もいつもそんななの?」
会う約束をして、しばらく話したあと、空が尋ねた。
太一と光子郎は互いに顔を見合わせ、「うん。こんなもん」太一が答えた。

さっぱりした短髪をわずかに明るくしている太一と、少し長めの前髪に細身の眼鏡が効いている光子郎。太一は明るいオレンジのTシャツに短パン、靴はスニーカー、柄の入ったリストバンドをつけていたが、光子郎は白シャツにすらりとした黒いパンツ、靴は(太一がこれにしろと言った)先が少し反った革靴だ。印象は全く違った。

「どっちも自分の趣味で買い物するのね…」
「お互い言い合ったりしないの?」
空とヤマトにコメントされ、太一と光子郎はまた互いの顔を見る。
「まあ…たまにああしろこうしろとか、言うけど」
「たいして気になるようなこともないので。」
「いま光子郎がはいてる靴は俺が選んだんだぜ」
空とヤマトも、視線を交わす。 ふっと笑って、ヤマトが口を開いた。
「みんな似たようなもんか」

実はもっと服に興味を持ってって、そういう話をしたのよ、空が言って、しばらくそんな話で盛り上がった。いまの光子郎の髪型と眼鏡が最高に気に入っていたりする太一は、意識してしまってしばらく無言を貫くはめになったのだった。



 




「そう、それなら、そうしましょう」

光子郎のとびきり優しいキスが、どんなに自分を癒すか知っている。
それでも、受け入れられない、受け入れたくないときだってある。
今日がそうだ。
あまりにもひどい出来。何もできなくて、走っても走っても光が見えなくて、挙げ句の果てに累積2枚目のカード。次のリーグ戦には出場できなくなった。
大学のリーグ戦。結果を積み上げて、3部リーグから2部リーグに昇格できそうなところにいた。欲しかったものは、つかむチャンスを手にしただけで、結局は指をかけることすらできずに逃げていった。
逃がした自分が憎い。チームメイトは今日は気を遣ってか何も言わないが、一緒にいるのが辛かった。

光子郎は、予想通り優しくしてくれた。でもそれを受け入れられない。
そう言ったら、光子郎は悲しそうな素振りも見せず、ただ冷静に言った。
「そう、それなら、そうしましょう」
コトリ、湯気を立て微かに香りを漂わせるお茶を置いて、光子郎は部屋を出て行った。
胸にざわりと風が起こって、太一は自分の甘えを悟った。
しばらく自己嫌悪に陥った後、少し冷めて飲みやすくなったハーブティを啜った。ほんの少しの香りが、光子郎のキスのようだった。



 





「こーしろう!」

たたき起こされるのを察知していたのだろう、直前まで一緒にいる夢を見ていた。
「太一さん?…いま、何時ですか…」
「あー?しらね」
今日来るなんて思いもしていなかった。だから熟睡していた。夢でふわふわした頭を働かせて、思い出した。太一は追いコンに行っていたはずだ。
「酔ってるんですね…ここは僕の家ですよ、太一さん」
「うん」
部屋の電気は点いていない。
扉を開けたらほとんどすぐとはいえ、太一は光子郎の布団に直行してきたのだろう。
そう思うと、可愛くてしかたがなくなる。
「わかってるよ…こうしろう」
光子郎は太一を抱き締めたい衝動を抑えたのに、太一がややぎこちなく(そしてそれがまた可愛いのだ)光子郎を抱き締めようとする。
「あいつら、キライだ」
それを聞いて、胸が少し痛む。
アルコールの入った席で、太一はまた何かを言われたのだろう。
「…朝になったら、ましになってますよ」
「ならないよ。そんなのいいんだ。…光子郎がすき」
言われると、嬉しい。眠気がと んでいく。
「ぼくも。太一さんが好きです。」「じゃあ」
光子郎の言葉を聞いて、太一がすぐに口を開く。
「キスしていい?」
キスしてほしい、じゃないのか、と少し驚く。答えは当然決まっている。
「もちろん。もらえるなら、いくらでも。」



 





さっきまで集中していたはずなのに。
先程から、隣から聞こえる溜息が気になってしかたなかった。
隣が太一であることを光子郎は知っている。
だからそちらが気になり始めると自分の集中が解けてしまったのだ。

「…ふう」
しかたない。

顔を出して、隣のブースを覗く。
そこには、右手に持つシャーペンを揺らしながら、左手で髪をつまむ太一がいる。
開いているのは地理の問題集だろうか。

光子郎は何も言わず、そっと右手を伸ばす。
太一の時々動く左手がさわるすぐそばの髪に触れた。
「!」
髪と、それから左手が察知したらしい。太一はすぐに光子郎に気付いた。
「…光子郎」
「太一さん、溜息ばっかり。」
ちょっと休憩しませんか、そう言うと太一はまた溜息を落とす。「うん」小さく言う。

マフラーだけを巻いて、予備校の外を散歩することにした。
太一は勉強に疲れた表情をしながらも、嬉しそうに言った。
「おんなじ学校ってかんじで、いいよな」
「そう…ですね」
「はーあ、光子郎がそばにいるって、いいなあ」
殺し文句のような一言。
光子郎は思わず足元のブロックばかり見つめてしまって、太一に笑われた。


 




授業が終わって、クラブが始まる、そんな時間の夕暮れが好きだった。

大きくなってもそのまま。晴れた日の夕方は気持ちが高揚する。
ビルも、海も、信号も、人も、ぜんぶがオレンジ色になる夕暮れ。
笑った顔が、オレンジと黒になる。
やさしい顔が、夕日がまぶしいと、うしろを向く。
大好きな時間。
うしろを向いたから、ためらわず抱きつく。
「わあっ」
おどろいてバランスを崩しかける光子郎が、振り向こうとする、
夕日が目に入る前に。キスをする。

「変な太一さん。…どうしたんです」
「なんでもないよ。」
ちょっとだけ、夜がくるまで、こうしていたいんだ。大好きな時間に。


 




今日は光子郎に会えなかった。
昨日も会えなかった。
会えなくても、ちらりと見るだけでもいいのに。(きっとそんなシチュエーションあり得ないけどさ)
そんなことで気分が沈んだ。
終わったばかりのテストが気になるとか、試験期間が終わってサークルのスケジュールが増えるのが憂鬱だとか、もう少し先には就職活動が始まるとか、
いっぱい気分が沈むことがあるのに。

(そん中から…よりによって光子郎)
自分にツッコミを入れたい気分。
体を動かしたら、きっとそんなの吹き飛ぶんだろう。でもそうわかっているからなのだろう、逆に体を動かせなかった。
(もうちょっと、うだうだしてたいわけね、オレ)
光子郎を心だけで呼ぶ、そんなことをしても何にもならないのに。
わかっているけれど、こちらの都合だけで光子郎の予定を狂わせることはできない。

(あーあ。いつからこんな)
臆病になったんだろう。


 




「こんなもんかな」
扉の外側にお飾り、玄関に干支の置物、
ダイニングテーブルにスーパーで買ってきた小さな鏡餅、
テレビの前にも正月飾りを置いた。

「はい」
光子郎が、笑顔を見せる。
「帰りが遅かったのに、おつかれさまでした」
「いやー、俺がやったのは飾りつけだけだし」
年明け早々に男二人で住む家に来る物好きなんていないだろうと思っていたら、光子郎の両親が顔を見に来ると言い出したのである。
光子郎は自分が行くと言ったのだが、休みが少ないのだから無理して来なくていいと言われてしまった上、
太一にもせっかくだからと言われてしまっては、それ以上ごねられなかった。

「掃除も準備も、やってもらっちゃってごめんな」
「そんな…掃除はちょっとずつやっただけですし、準備だってそんなにしてないです」
年末が忙しかったのは太一だけで、光子郎はむしろ普段よりちゃんと休めたくらいだった。正月飾りやおせちの相談をしたかったのだが、結局ほとんど光子郎が全部決めてしまって、それが心残りだった。
でも、そんな気持ちも新鮮だ。それに、この家で同棲を始めて最初の正月を、二人で迎えられる。それが一番だった。

「それより、太一さんがちゃんと帰ってきてくれましたから」
「何だよー、ちゃんと帰ってくるよ…」
「?」
「、、帰れないとか、連絡くるかもって思ってた?」
「そんなこと」
笑って否定する。
「太一さんが帰ってこないとしたら、それはほんとにしかたがないことでしょう? そのときはそのとき、です」
小さく、そか、と呟くのが聞こえた。
「太一さんと、こうやってちゃんとお正月できるのが、嬉しいです」
「うん。そうだな。…ま、日付はもう変わっちゃったけど」
また笑って、そんなのいいんですよ、と答える。

「そうだ」
「ん? なんか忘れてた?」
「あいさつを。」
「え」
「…あけまして、おめでとうございます。今年もよろしく」
「…うん」